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正岡子規からの伝言
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17 正岡子規(まさおか しき)1867〜1902
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俳人、歌人。伊予松山の生まれ。写生句を特徴とする日本派俳句を確立、
雑誌『ホトトギス』を創刊。
また写生主義と万葉調を主唱して根岸短歌会を結成し、 短歌革新運動を行い、
アララギ派の基礎を築いた。
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              注)■は偉人の言葉 ◇は筆者の解説とコメント


■ 窮(きゅう)して而(しこう)して始めて一条の活路を得(う)。  
 始めより窮せざるもの却(かえっ)て死地に陥り易(やす)し。

 

          *****


◇今日6月13日、『世界がもし100人の村だったら2』が発刊された。こ
れはベストセラーになった『世界がもし100人の村だったら』の第2弾であ
り、「100人の村」の現状報告として、より詳細な分析を加えた内容である。

 今になってまた、「100人の村」を蒸し返すのかと、うんざりの読者の方
もおられると思うが、今回でこれに関するコメントは最後にしたい。実は、新
刊『世界がもし100人の村だったら2』を読んで、ある期待を抱いていた。
私と同じ観点から編集・出版していてくれたらと淡い期待をもっていたのだが、
そこまで踏み込んでいなかった。

 だが、この本をこれから私が公開する新しい見方で読むならば、すばらしい
気づきに出会うこと疑いなしである。

 皆さんは「100人の村」を読んでどんな感想を持ったであろうか。思い出
していただきたい。
1、100人の村の現状、世界の危機に愕然となった。
2、世界の中での自分の位置を確認することができた。
大きく分ければこの2つであろう。

 私も初めはこの2つの感想を持っていた。ところが、1月27日にTBSサン
デーモーニングで「100人の村」が取り上げられ、私の運営するサイトのコ
ンテンツ「小学生にも解る世界の縮図(世界がもし100人の村だったら)」
http://www.ne.jp/asahi/kojo/bunko/index0-0.html
も一瞬ながら紹介され、電話インタビューも受けたのであるが、インタビュー
の最後にテレビ局の人からこんな質問を受けた。
「100人の村の発信者の一人として、先進国人の驕りは含まれていませんか?」

 皆さんならこの質問にどう答えるであろうか。私は正直、答えられなかった。
上記の感想でいうと「自分の位置を確認し、現状に幸運を覚えた」という事実
が、確かに私の心の中にあった。発展途上国の人たちと比較すると自分は幸せ
だと思った。確かにこれは先進国人としての驕りだと言われればしかたがない。
テレビ局の人もいじわるな質問をするものである。

 そんな悶々としているときに、地球村の高木善之さんの講演会を聞き、アフ
ガニスタンの子供との会話を知って頭をトンカチで殴られたような衝撃を受け
た。すでに本メルマガで記事にしているが、新しい読者もおられると思うので、
その部分だけ転記しておく。

> 高「君たちは不幸じゃないかい」
> 子「どうして僕たちはこんなに楽しく生活をしているのに、
>   なんで不幸だなんて聞くの」
> 高「そうなんだ・・・
>   日本では年間3万人の人が自殺するんだよ」
> 子「え! 日本って、アフガニスタンよりもっとひどくて、たいへんなの?
>   ここでは自殺者はいないよ」
>
> ほんとうに豊かなのは日本なのであろうか。アフガニスタンなのであろうか? 
(詳細はメルマガ73号「島崎藤村からの伝言」をご参照いただきたい)
http://www.kojobunko.net/column/21seiki/14message.html

 私たち先進国人は物質的豊かさで判断し、幸・不幸をはかってきたのだが、
はたして心の豊かさという観点からするとまことに貧困そのものであることを
知った。

 それから間もなくして、本メルマガの読者の知人に目のウロコがぽろりと落
ちるようなアドバイスをいただいた。その言葉はこうである。
「100人の村の情報に結論を持たせる必要はないんじゃないの? 読む人に
よって読み方も違うだろうし、ただ現状というものを知るためのツールとして
扱えばいい。この情報は、自分を映し出し、人類を映し出してくれる大きな鏡
のようなものだ」

 私はすごいなあ、と思った。
「結論は不要。現状を知るためのツールにする。自分を映す鏡にすればいい」
これは私が忘れていたい見方だった。

 結論を出す必要がないということは、どういうことか。それは比較をしない
ことなのである。

 100人の村を読んだ人たちは、たいてい世の中を比較のモノサシで計った
はずである。発展途上国より幸せだが、アメリカより不幸せだ。とか、○○人
より恵まれているとか、なにかそこに結論を得ようとしていたのである。

 そこで、もう一つの「新しいモノサシ」――比較を絶したモノサシで見てい
ただきたいのである。100人の村の情報をまず読み、それを幸・不幸という
モノサシで見ずに、「私たち人類が比較というモノサシで作り上げた世界の現
状はこんな状況ですよ」というメッセージとして受けとめていただきたいので
ある。

 そして私たち人類は、比較のモノサシだけでは、すでにどうしようもないと
ころまで来ていることを自覚しなければならない。価値観の変革が必要なので
ある。そう、新しいモノサシを手に入れる時期に来ているのである。100人
の村の情報はそのことを伝えようとしている。

 さて、その新しい価値観ともいうべきモノサシをここに提案したい。

 私たち人間の生きているこの世の中は「比較相対」というもので成り立って
いる。誰かが勝てば、誰かが負ける。誰かが得をすれば、誰かが損をする。と
いった損得、勝ち負けで展開している。これは一見事実であり、誰一人否定す
るものはいないであろう。私はこれを「比較のモノサシ」と呼んでいる。私た
ちが今の現状を作り上げてきたモノサシである。

 「比較のモノサシ」、実はこれ以外にもう一つ大切なモノサシがある。それ
は比較しないモノサシである。私はこれを「比較を絶したモノサシ」と呼んで
いる。その象徴たるもの、それは「愛」である。

 「愛」という言葉を使うと、どうも曲解、浅解されてしまうきらいがある。
「愛」=エロスなどと軽々しく考え違いしてしまうのも、今のご時世からする
としかたないのかもしれない。

 愛の象徴といえばやはり母性愛だと思う。母親が子を思うそこには打算がな
い。もし打算があったとしたら、どれほど儲かるか。
「今日は8時間わが子の世話をしたのだから、時給700円として5600円」
これを紙に書きつけ、子供が大人になったときに請求する親はいないだろう。

 愛に比較はない。その子が勉強できるできない、身体が強い弱い、そんなこ
とは関係ない。ただただ愛する。できの悪い子供ほど愛さずにはおれない。そ
こには「比較を絶した世界」がある。赤ちゃんに母乳を与え、おしめを替える
その行為は、決して見返りを求めるものではない。その見返りを求めない、比
較しないモノサシがまぎれもなく存在しているのである。

 『大学』という書物、これは中国古典の四書五経の中の一冊であるが、その
冒頭に「明徳を明らかにする」という言葉が出てくる。

 これは人間が本来持っている本心・良心を取り戻すこと。心にかかった雲を
払うことによって、本当の輝く自分を見つけることを言っている。

 私たちは世の中を比較のモノサシではかり、比較は善悪・好悪を生み出す。
誰かがよければ誰かが悪い、誰かが得すれば誰かが損をする。これは人間の合
理的な感情が生み出す働きである。世の中のほとんどがこの比較のモノサシで
展開され、そこには闘争が起きる。

 しかしこれは、心にかかった雲のようなものである。比較というのはある意
味「迷い」。その雲を払うと、そこには本来の心、輝く本来の自分、比較を絶
した自分が現れる。

 私たちは習慣的に、否応なしに「比較のモノサシ」を植え付けられているの
である。「比較のモノサシ」で育った子供は、大人になってから間違いなく世
の中を比較のモノサシではかる習慣がついている。

 これから新しき100人の理想村を作り上げるには、「比較を絶した愛のモ
ノサシ」ではかることができる人間を、まずは少なくとも2割を占めるまでに
もっていかなければ、現状を打開することはできないと思う。

 ここ数年、この価値観の大変革はすでに始まっている。「比較のモノサシ」
オンリーで今までどおりやっていく人や企業は急速に衰退し、そして新しいモ
ノサシ、本物のモノサシではかることができる人や企業が残っていくことに少
しの疑いもない。

 読者のみなさん(私も含め)にも、ぜひとも比較のモノサシをなげすて、あ
りのままの比較を絶した愛のモノサシに変換していくことを提案したい。そう
すれば、必ず近い将来、すばらしい環境に身を置くこと疑いなしである。

 「100人の村」の情報は、「比較を絶した愛のモノサシ」を知らせるため
のメッセージであることを一人でも多くの人に知っていただきたい。

 こうした観点で新刊『世界がもし100人の村だったら2』を読むと、「比
較のモノサシ」で作り上げた私たち人類・世界の現状が把握できるはずである。
そして、この比較のモノサシでは私たちの地球は救えない、破滅に向かう以外
に道はないことをまずは自覚から始めなければならない。

 新しいモノサシはすでに私たちの目の前、否、私たちの心の中に存在してい
る。あとは思い出すだけである。そうなるとどういう世界が展開するか。

 これからの未来は、
 ■比較のモノサシ(ナンバーワン)
 から、
 ■比較を絶した愛のモノサシ(オンリーワン)
 の世界へと躍入していくのである。

「そのままでいい そのままがいい みんな違って みんないい」
それぞれがそれぞれの天分に合った生き方をしながら、
そして全体が大調和に満たされた世界となる。



 ■そのままでいい、そのままがいい
  みんな違って、みんないい 


 「世界がもし100人の村だったら」を読んでこう思った。
 100人の村のすべての人は、
 そのままでいい、そのままがいい。
 みんな違って、みんないい。

 みんな愛に向かって成長している、
 今は、ほんの一場面でしかない。
 だから比較はしないでおこう。

 みんな、みんな自分に与えられた環境を一所懸命生きている。
 ホームレスのおっちゃんも、べつに怠けているわけじゃないし、
 過酷な環境で一所懸命だと思う。

 すべての人のすべての人生を認めてあげる。
 認めることから始めたい。
 万人を受け入れることは難しいけれど、
 ただ、認めることはできると思う。

 とにかくそのままでいい、そのままがいい。
 みんな違って、みんないい。

       ◇

 ■愛こそすべて

 私たちは今、
 それぞれが選んだそれぞれの人生のチャンネルを見ている。
 だから周波数の近い人たちが、同じ場所に集っている。
 集う人たちがどこか懐かしいのはそのためだ。

 それぞれのチャンネルには、それぞれの善悪が生まれる。
 あなたの見ているチャンネルと、
 ぼくの見ているチャンネルは番組も違う。
 だから善悪の基準も違ってくる。
 善悪というよりも好き嫌い。
 相に合うか合わないかということ。

 チャンネルにも段階レベルがあるが、
 愛という基準からすれば、どれも一過程にすぎない。
 どれが善いとか悪いとか、決めつけられない。
 究極はすべてのチャンネルに周波数を合わせられること。
 そうなれば善悪は存在しなくなる。
 すでに愛こそすべての領域に達しているのだから。

 愛こそすべてに向かって、
 ぼくたちは生まれ変わりを繰り返している。
 すべてのチャンネルに周波数を合わせられるようになるために。

 他のチャンネルを認めることから始めよう。
 どのチャンネルを見ている人も、
 同じ愛に向かって成長している。
 お互いに助け合いながら、
 愛こそすべてに向かっている。

       ◇

 ■ひとつであり、すべてである
 
 空気はどこにあるのか。
 キッチンの空気とリビングの空気は、
 臭いも温度も違ったそれぞれの雰囲気があるが、
 同じ空気に変わりはない。

 キッチンの空気はどこまでで、
 リビングの空気はどこまでと分けれらない。
 どこかでふわーんと混ざり合っている。

 人間の魂はどこにあるのか。
 魂は人間をふわりと包み込んでいる。
 だけど私の魂はどこまでで、
 あなたの魂はどこまでと分けられない。
 どこかでふわーんと混ざり合っている。

 この世のすべてが魂であり、
 あなたも私も、みんなつながっている。
 ひとつであり、すべてである。

 あなたから奪うことは、私から奪うこと、
 あなたを傷つけることは、私を傷つけること。

 あなたを信じることは、私を信じること、
 あなたを愛することは、私を愛すること。

       ◇

 ■いつか必ずたどりつくところ

 比較をするなと言われても、
 やはり比較をしてしまうぼくがいる。

 飛行機が空気の抵抗を利用して飛び立ち、
 車が地面との摩擦を利用して走るように、
 比較という抵抗摩擦は、
 愛こそすべてにたどり着くためには必要なもの。

 抵抗や障害を避ける、比較を避けるのではなく、
 勇敢に抵抗に向かっていく、比較に向かっていく。

 抵抗や障害にのる、比較にのることによって、
 飛行機のように飛び立てる。
 のってしまえば抵抗は感じなくなる。
 比較の必要もなくなる。

 今、勇気をもって、踏み出そう。
 比較の必要ない世界に向かって、飛び立とう。

 そこには、輝く自分が待っているから。
 そこには、輝く世界が待っているから。

 

 

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